ブラジルの光と影 その7
2018年9月26日
ブラジルの光と影 - その7 長井 一平
「ブラジルは、何故、サッカーが強いのか?」
優勝候補No.1とみなされていたブラジルが、七夕の今日、ベルギーに敗れた。
4年前のブラジルを木っ端みじんに打ち砕って、今回のロシアWorldCupの優勝候補に挙げられていたドイツも、初戦で敗退した。
勝負の世界では何が起こるか全く分からない。
私は、ブラジルに45年間住んでいるが、サッカーにはあまり詳しくない。
45年間だから、その半分くらいは熱いブラジルのWorld Cupに付き合って来た事になる。
つまり、世界で最大のサッカー狂国民と言われるブラジル人のお祭りを見てきた訳です。
そして今回のお祭りは、過去のいずれのお祭りよりも異なるものになりました。
その理由は、4年前のブラジル大会で、日本のお客さんを案内して、CUIABA競技場で、日本とコロンビアの試合を見たからです。
この40年間、ブラジル国内の試合は数回観戦したが、国際試合は始めて、それが日本チームであったから、興味が煽られた。
サッカー狂のお客さんに話を合わせる為に、にわか勉強もした。そして当日、会場で起こった出来事が、「何故この大会が、世界の人々の興奮を呼ぶのか?」を考えさせられる機会となり、それが今回のテーマの「何故ブラジルはサッカーに強いのか?」に繋がって行きます。
4年前の出来事です。
会場の列に並んでいると、コロンビアの応援団の連中と隣り合わせになった。
南米風の原色のシャツに身を包み騒いでいる。
そのリーダー風の30歳前後の男が、私たちが日本人と知り親しく話しかけてきた。
日本は今日の対戦相手だからだ。
一般的に南米の人々は日本人に対して敬意を払う。
何故なら、この100年間くらいは、南米諸国は「反米風潮」だった。
アメリカが南米を「自国の裏庭」として搾取して来たからだ。
キューバの社会主義国家、アルゼンチン、チリ―が社会主義政権になったことは、人々のアメリカに対する反感の表れだ。
そのアメリカに対して、70年前に日本人は戦いを挑んだ。
そして負けたが、今度は経済戦争を挑み、見事、世界で3番目の強力な経済国家となった。
そんな偉業は、決して自分たちには出来ないことだ。
だから親しみを込めて、今日の試合の予想を話しかけてくる。
私はそれに答える知識がないから、適当に付き合っていた。
試合が始まった。
隣席のブラジル人のラジオ放送が、何度も繰り返していた。
「日本チームは、何時ゴールを狙いに行くんでしょうかね。」
そして後半に入ってコロンビアのベンチから飛びだして来た若手が、それまでの日本チームの華麗なパスワークを馬鹿にする様に日本ゴールに蹴り込んだ。
それが正しい攻め方かどうか、私には分からなかったが、4対0のコロンビアの圧勝となった。
つまり正々堂々風のプレーの日本が、ゲリラプレーの様なコロンビアにやっつけられた。
その帰り道、またコロンビアの応援団の若者たちと一緒になった。
私たち2人の日本人を見つけて、国旗を振りかざし、「コロンビア、勝った、勝った」と大騒ぎ。
「見てみろ、俺たちが日本に勝ったのだ!!」と試合前の遠慮はどこかに消えてしまっている。
その豹変ぶりに、阿保らしくて馬鹿らしくて、そんな豹変が出来る彼らの無邪気さに感心さえした。
しかしこの出来事を振り返ってみると、「WorldCupは、世界の人々が率直に自分の意見を表現する国際大会ではないのだろうか?」と思う。
コロンビア人の彼は、今まで別世界の優秀人種だと思っていた日本人に勝ち、そして、4年後の今年は、それが全く反対となった。
それが人生だと彼が思ったかどうか分からぬが、学校教育で学んできた日本と日本人を、この試合で学ぶことが出来た。その後の他国との試合も同じだ。
この章は、ブラジルとサッカーの関係を書くのですが、私の幾つかの思い出を書いてみます。
◎カーニバルの思い出:
今から50年ほどの昔、私の学生時代のブラジルで、若さに任せてリオのカーニバルを見学に来たことがあります。
どの様な山車や、音楽があったのかは、まったく覚えていないが、大きな山車の側に、粗末な一輪車と、それを引っ張る痩せた黒人、その黒人に鞭を振り下ろす白人の出し物があった。
それは周囲の派手な出し物とは、全く異なるもの、しかし、「ブラジルとサッカー」を論ずる時、「貧富の差と人種間の差」を表現する貴重な出し物だったと思います。
奴隷制が廃止され、普通の社会になったのは、僅か、150年前の事。
だから人々の心の発露でもあるカーニバルに、当時の奴隷制を表現する出し物が出てもおかしくないし、その様な差別された社会の中で、黒人たちはサッカーをマスターする事によりお金を稼げることを学んだ。
それが今のサッカー王国を支える要素でもあります。
◎当時のカーニバルの踊りの列は、今の様に時間で管理されていなかった。
だから、踊り子たちも観客席に友人がおれば、その席に近ついて踊りを披露した。
踊りが右に行ったり左に行ったりする。だから、主催者は全体の流れをコントロールするのに苦労したと聞く。
そしてその後、世界銀行がブラジルの経済発展を表現するのに、「カーニバル経済」と呼ぶ様になった。
つまり、計画どうりに経済プランはスタートするのだが、その目標が何年後に予定のラインに到達するのか、全く分からない。
しかし、数年間のスパンで見ると、ちゃーんと決めたラインに到達している。
キチンと時間通りに動くのは不得手だが、初めと終わりを合わすのはうまい。
ブラジル人の特質である。
◎ブラジルのサッカーを紹介する写真には、いつもコパカバーナの海岸とヤシの樹々、そして、青い空と大西洋の海が背景に出てくる。
その画面の中心に、大きなお尻と胸をあらわにしたカリオカ娘が白い砂浜に肢体を投げ出し、その傍で、半パンツの黒い皮膚の坊主たちが夢中でボールを蹴っている。これが写真の定番だ。
「何故、リオ、黒人の坊主達、グラマーなモレナ達」なのか?。
サッカーと言うスポーツには、「灼熱の太陽と観客の絶叫」とがよく似合う。
褐色や真っ黒な肌の観客たちも、灼熱の観覧席に不可欠だ。
このサッカーが世界的なスポーツになり始めた頃、世界はリオがこの自然条件にピッタリと合うことに着目、そしてそこからペレが現れた。
リオから出てきた黒人のサッカーの天才。
スポーツの世界的なビジネスを探していたプロたちは、この瞬間を逃さなかった。
1962年にキューバ危機が起こり、あわや、ソ連xアメリカで、第3次世界大戦が起こる危機に見舞われていた。
その危機が、フルシチョフとケネデーとの手打ちとなり、世界がほっとした頃に現れたのが、ペレだった。
「あれ! それなら私と変わらない世代だな」と思って調べてみると、2歳年上。
成程、ブラジルが世界のサッカー大国に育っていったのも、ペレの活躍と並行している。
彼がブラジルのサッカー界に現れたのは、1950年代。
そして、1958年、1962年、1970年と20年間に3回優勝している。
ペレがあってのサッカー大国である事が良く分かる。
さて本題の「何故、ブラジルはサッカーに強いのか?」のテーマの答えを探していく。
①外的条件として、「暑い気候」「広大な砂浜」「開放的な自然環境」。
②内的条件として、「人種差による所得格差」「主に黒人たちのハングリー精神」「細かいことに拘らない国民性」
③ペレの出現。
決して天がブラジルに与えた条件ではなく、ブラジルが自らの力で作り上げた環境だと思います。
そして、今までの章に述べたブラジル人の、規律に拘らない「何でもあり」の精神が、彼らの人生の基本だと思います。
以上、