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日本ウッドデッキ協会からコラム

ブラジルの光と影 その1

2018年3月29日

始めに
「ブラジルの光と影」を書いて行きますが、ブラジルの特徴を選んで、それを題材にして、話を進めていきます。第一回は、「移民の国ブラジル」を取り上げました。続いて、経済成長、政治と汚職など、身近な話題に入っていきたいと思います。
移住者万歳
 
ブラジルと日本の大きな違いは、どこにあるのだろうか?
その答えは、「異なった民族が集まった『移民の国』と『単一民族の国』、つまり、国を構成する人種の考え方やり方が、その国の特徴を作り出す」のだと私は思う。
そして、イタリア系、ドイツ系、日系の3民族が、現在のブラジルを支える社会的な骨格となっている。
「国家を支える骨格」は、移民送り出し国の移民数およびその家族数が基盤だが、その数字だけではなく、「移民の性格」も大きく影響する。
たとえば日系人は、6世まで含めて約150万人であり、約2億人弱のブラジル国民の1%にも満たない。その超少数民族が、経済的、文化的、教育的、道徳的などブラジルの人間社会に与えて来た影響力を研究した社会学者がいた。
その答えは30%、つまり、3人に一人が、毎日の生活で、日本と言う国の存在を自覚するというのだ。70年前は、日本は敗戦国、世界の貧国だった。
そこから、棄民と言われてブラジルに送り出された農業移民の人達が、100年の長い年数に、ブラジル社会から尊敬される日本人社会を作り上げたのだ。
日本だけではない。
第2次世界大戦の敗戦国であったドイツ、イタリアからも、裕福なコーヒー生産国ブラジルへ人々は移住してきた。
それはコーヒー栽培に必要な労働力のアフリカ黒人の輸入が禁止されたから、世界の3貧国からの代替労働者の募集だった。
しかし過酷な労働だった。事情が分かるにつれて、ドイツ、イタリア政府は,コーヒー栽培移住者の渡航を禁止した。
しかし、日本政府は「熱帯植物栽培の開拓者」と誇大宣伝で、人々を煽っていた。そして、戦争は終わった。3つの移住者集団地で、人々はどの様にしてその日をむかえたのだろうか。
◎。イタリア人;ワインと豊富な食べ物が並べられて、陽気なイタリア音楽で踊って飲んで終戦を祝った。
◎。ドイツ人;農作業は休みとなり、それぞれの自宅はひっそりと閉じられて、人々は家の中で祖国の敗戦を悲しんだ。
◎。日本人;どの国民よりも悲痛な面持ちで敗戦を悲しみ、しかし、農作業は休むことなくつづけられた。
そして、終戦後70年間経過したブラジルは、何事も無かった様に動いている。3つの異なる民族も、ドイツ系は金属、精密工業でブラジルを引っ張って行き、日系は果実栽培、農業一般で指導力を示し、ブラジル人口の半分以上を占めるイタリア系は、ブラジル社会、経済のすべてにおいて、ダイナミックな力を見せている。
ブラジルの大統領の出身国はどこだろうか? 
40年間のブラジル生活の中で、私は一人の大統領を思い出す。1974年に国民投票で選ばれた、エルネストガイゼル。
背の高い、ドイツ人らしい大柄の体格、その表情も厳しい大統領であった。その彼が、日本政府の招待で訪日した。
有力閣僚のウエキ鉱山開発大臣も同行していた。
彼は大統領の懐刀でもあり、日本語もよく理解する日系ブラジル人だった。その様子を見ていた経団連の代表が発言した。
「わが日本国からの移住者の息子の世代のウエキ氏を、大統領閣下の随員として厚遇されていることに、心より感謝いたします」。
この発言に、ブラジル政府の公式通役員は驚いた。両国の公式の会議の席での個人的な感情の発言、ウエキ氏はブラジルの政府要人であることを忘れた発言、大統領に誤解を与えかねない発言。
このハプニングを耳にした時、私は日本人一般がもっている、「移民に対する一般的な概念」を思い出した。「ブラジルでよく頑張ったな」と言う発言は、一般の移住者へのねぎらいの言葉である。 あの時の随行員の中に、他国の2世が混じっていたかも知れない。
ならば、彼らも自国の訪問に随行した時、同じ様に感謝されるのだろうか?。
決してそんな事は起こらない。
移住者とは、その国に住み着いた時から、その国の国民になる運命をもっている。しかし、「心情」は別である。
上記の3国民が敗戦の悲しみを、それぞれの国民性で表現した様に、自分の「心の持ち方」は、自由であって良い。
私はブラジルに40数年間住んでいる。「星雲の志」を持って、ブラジルで生きる事を望んだからだ。大学の同期の仲間は、当時の所得倍増政策による高度経済成長の急行列車に乗り込んで行った。それから30年後、彼に再会した時、私に尋ねた。
「お前、そろそろ、日本に戻ってきたいのじゃないのか?」
「なんで、そんな事、聞くのかい?」
「見てみろ。日本は素晴らしい国に変わったじゃないか。ブラジルとは比較にならんだろう」
現在ブラジルに住む日系人は、それが2世であれ6世であれ、一人一人が、自分が持っている「血」を意識している。その気持ちが、彼らの人生の中で何かの機会に爆発して、素晴らしい人生を生み出す切っ掛けとなる。
ISHIGURUさんとFUJIMORIさん。
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「Kazuo Ishiguro Novel Premium!!」、こんな驚くようなNewsが入って来たのは、「移住者万歳」の草稿を練っていた時だった。
「一体、どんな人なんだい?」これが私の第一の疑問だった。
私よりも約10歳若い彼、5歳で駐在員家族としてイギリスに行き、そのまま、現在まで住み着いている。
そうした人生経験を持つ日本人は、移民国家のブラジルでは沢山いる。 
私が興味を覚えたのは、彼が20歳台の半ばで、「自分は何者か?」と考えて、その結果、イギリス国籍を申請した事だ。
それまでの彼は、幼児体験でうっすらと残っている日本(長崎)をテーマとして作品を書く駆け出しの作家だった。
僅かな日本の生活であったが、日本の祖父が毎月送ってくれる漫画や雑誌をむさぼるように読んで、自分の心の中の日本を作り上げていったと告白している。
「自分は何者か?」と一人呻吟していた20歳台の日本の青年が、イギリス人として生きて行こうと決めたその瞬間から、自分の周囲の世界はすっかり変わってしまった。
そして、その後の作品で、イギリス最高の文学賞の受賞、そして、ノーベル文学賞と言う、イギリスに生きる日本生まれの一人の男が、最高の栄誉と1億2000万円を得た。受賞式の席で、彼は次の様に語っている。
「ノーベル賞受賞と言う信じられない出来事。英国で育ち、教育を受けたが、私の世界観には日本が影響している。私の一部は、いつも日本だと思っていた」。
Ishiguroさんをきっかけにして移住の考えを広げていくと、ペルーのフジモリ大統領を思い出す。あれは1985-1990年時代、「ブラジルの失われた5年間」と言われた最悪の時期、私にとって精神的に最低の時期に隣国ペルーに現れた、数年年上の日本人大統領。驚くと共に、その快挙に心の底から万歳を叫んだ事を思い出す。
彼は日本生まれではない。ペルー移民の家族でペルーで生まれたのだ。
しかし当時の日本人移住者が住んだ環境は、日本の農村と全く同じ。
有名な評論家、故大宅壮一が残した名セリフ、「日本の明治時代を見たければ、ブラジルへ行け」のごとく、物質的にも、精神的にも、移民者たちが住んでいた集団地には、日本の田舎が、そっくり再現されていたのだ。
フジモリさんは、毎朝、天皇皇后陛下を拝み、日本の祝祭日には、昔の日本と変わらない厳格な行事が行われたに違いない。
その環境の中で、彼の精神の骨格が作られていったに違いない。そして成人してペルー社会に生きて行くうちに、「ペルー大統領」と言う目標が固まっていったのだろう。
彼の伝記の中で、印象深い話がある。彼が大統領に立候補した時、マスコミは彼を最下位の泡沫候補とみなした。ところが投票日が近くになると、どんどん順位が上がっていく。
そして、1週間前になると、いきなりトップに躍り出た。
その様子をマスコミは、「ツナミ候補」と表現した。地震国ペルーでは、ツナミは現地語となっている。そのツナミを起こしたのは、国民の半分以上を占める低所得階層だった。ペルー原住民の多くは、アジア人に繋がっている。
赤ん坊の蒙古斑点は、今でも延々と続いている。だから彼らは日本人の大統領候補に親しみを感じて「チノ、チノ」と応援したのだ。(Chino=チノ、アジア系民族への愛称)。
そして、子供時代に日本の昔の教育を受けた彼の精神的な基盤は、成人となってからも日本人以上に日本的な考え方になっていた。そのペルー大統領の最高の見せ場は、日本大使館の人質事件で、自ら防弾チョッキに身を固めて銃弾が飛び交う現場に飛び込んで行った侍大統領のフジモリさんの姿だった。
最後に。
移民、移住を切り口にして、「ブラジルの光と影」を書き始めたが、話がすっかり飛んでしまった。
何故なら、この2つの言葉が死語となってしまって話がつづかない。
私のブラジルの「星雲の志」の仲間の多くが、数年に一度、海外に出かける。その行先は、彼の日常生活、仕事と無関係の国である。
孫に会いに行くのだ。その昔、私達が「坂の上の雲」を追っかけて来た様に、息子たちが住む国も、父母の国に関係のない国だ。「なんでそんな国に?」と聞くだけ無駄だ。
「泣いてくれるな、オッカさん」と、一人、手を合わせてブラジルへ向かったあの日を思いだす。ブラジルは、遠かったけれど、今ではすっかり近くなった。
以上。
ブラジル在住 長井 一平